私はこの大光院で名前を付けてもらった、と親から聞いた。
大光院……慶長18年(1613年)、徳川家康が先祖の新田義重を祀るために呑龍を招聘して創建。境内裏には、新田義重や呑龍の墓がある。 呑龍は当時、多くの子供が間引かれて殺されていた事を悲しみ、これらの子供を弟子として引き取って育てたため、後世の人々から子育て呑龍と慕われた。
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「秀尚」という名だが「秀れたお尚さんのような人になるように」といった意味があったらしい。そうかそんな事があったのかと、自分の名前の由来を聞いてえらく納得した。まあ、だいぶ名前負けしていますが……。
私の娘は「琴音」という。
その名の由来は「新田義貞が勾当内待と出会った月夜の晩」の一場面から取った。宮中を警護していた義貞が、琴の音に誘われ、行った先に琴を弾く内侍がいた。その瞬間に義貞は恋に落ちた。
まあそこから取って「ことね」と名づけた。
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「まんが・太田の歴史」から
「ことね」というと大体、「いま風の名前ね」と言われる。確かに赤ちゃんの名前ランキングに入っている。
だれも太平記の唯一のロマンテックな場面から取ったとは思わないでしょう。
まあこれも親のエゴでしょうが、それぞれ「名前」には各々意味があるということです。
人の名前にはそれぞれ由来があって、名づけた人の思いが込められている。これは人だけではなくて、地名や建物、飼っているペット、それにその辺に売っている商品名にだって、それぞれに名前の由来があって、そこには秘められた意味がある。
そしてこれら名前を付けることを「命名」という。モノや現象などに名前を与えて、命を吹き込むということになる。命を与えられた名前は、そのときから魂� �持つ。これが言霊信仰ともつながることになる。
受験のとき「ウカール」(カール)とか「キッチリトール」(キシリトールガム)とか売られる。これが受験生とか関係者にしてみれば、ただのダジャレだけではなく、意味のあるものになる。そこに言霊信仰があるということです。
「名前には魂がある」といったところを踏まえて、この事件を考えてみましょう。
鹿児島「踏み字」事件 元警部補に懲役10月求刑 福岡地裁公判 3月18日判決
2008年1月25日(金)10:10
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鹿児島県議選の公選法違反冤罪(えんざい)事件(志布志事件)の捜査過程で、親族の名前を書いた紙を踏ませたとして、特別公務員暴行陵虐罪に問われた同県警元警部補、浜田隆広被告(45)=福岡市西区=の論告求刑公判が24日、福岡地裁(林秀文裁判長)であり、検察側は懲役10月を求刑し結審した。判決は3月18日の予定。
我々は、空腹の男性の歌詞です。
検察側は、捜査官の調べは説得で真相を明らかにすることであり「暴行や陵虐行為で口を開かせることは許されず、踏み字行為をした犯行動機に酌量の余地はない」と指摘。「捜査機関への不信感を増大させ、警察全体の信用失墜につながり責任は重大」とした。
弁護側は最終弁論で「踏み字行為に違法性はなく、陵虐や加虐行為に該当しない」とあらためて無罪を主張した。
この日は、被告人質問もあり、浜田被告は踏み字行為について「屈辱感を与えるためではなく、(黙秘をやめて)私に向き合って話をしてほしいとの気持ちからの行動だった」と主張。さらに、「志布志事件は県警が情報に基づいて開始した捜査で、でっち上げではな� ��」と述べた。
踏み字を強いられた被害者の川畑幸夫さん(62)も意見陳述し「不当な黙秘だから踏み字は許されるという暴言を吐き、うそにうそを重ねる被告は許されない。厳罰に処すべきだ」と訴えた。
起訴状によると、浜田被告は鹿児島県警捜査二課の捜査員だった2003年4月、川畑さんを志布志署で聴取。川畑さんが供述を拒んだことから、父や孫の名前などを書いた紙3枚を床に置き川畑さんの両足をつかんで1回踏ませ、精神的苦痛を与えたとされる。
■被告「侮辱と思わない」 川畑さん 求刑「軽いんじゃ…」
「同じ状況に置かれれば、どういう感情を持つか。侮辱されたと思いませんか」‐。裁判長に尋ねられた浜田隆広被告(45)は「不快な念を持ったかもしれません」と答えたも� ��の、「(侮辱とは)思いません」と言い切った。
福岡地裁で24日、結審した「踏み字」事件の公判。被告人質問では、警察庁が「取り調べ適正化方針」の中で、監督対象行為として挙げた「容疑者の尊厳を害する言動」について、取調官だった浜田被告と調べを受けた川畑幸夫さん(62)の感覚の違いが際立った。
浜田被告は「踏み字」を強いた理由について、「(黙秘を続ける川畑さんに)自分と向き合ってもらえるようにとの気持ちだった」と説明。しかし、「文字を踏ませることの意味は精神、魂を踏ませるという気持ちなのか」「江戸時代の踏み絵は頭に浮かばなかったか」と、川畑さんの思いを代弁するような裁判長からの質問には、顔を紅潮させて「いいえ」と繰り返した。
一方、川畑さんは意見陳述で「� �たち家族のきずなを土足で踏みつけにした」と浜田被告の行為に、涙で声を詰まらせて反論。閉廷後の記者会見でも、「踏ませられたのは、私にとっては紙ではなく位牌(いはい)」と述べ、検察側の求刑懲役10月に対して「意外だった。軽いんじゃないか」と悔しさをにじませた。
=2008/01/25付 西日本新聞朝刊=
酷い事件です。これは「精神的な殺人行為」です。
この浜田被告は精神的ダメージを相手に与えることが出来ると分っているから、こんなことをしたはずなのに、「侮辱した行為ではない」と言っている。明らかに矛盾している。
また「踏み字」をさせた回数が争点の一つになっているが、回数なんかは問題ではないのだ。そんなことを言い争うところが馬鹿げている。殺人事件で、ナイフで1回刺そうが10回刺そうが、相手が死ねばその時点で殺人行為が行われたということではないのか。
そして、私はこの浜田被告の心理の動きを想像すると怖い。相手を心理的に追い込んでいく悪魔的発想に至っていく点も恐ろしい。
彼は、自分が思い付いた「踏み字」という独自的アイデアを、実行に移すには、どうすべきかを思い描いただろう。そして彼の取った行動は、心の中が非常に冷静でなければ出来ないことだ。
名前を書く分の紙を用意し、そこに相手の家族の名前を書くために一人一人の名前を調べ上げ、家� ��の名前を間違えないようにそこに書き込み、わざわざ相手の足を持って踏ませるまでの一連の行動。この計画的行動は決して、突発的な行為ではない。相手を精神的に追い込むためには、厭わない行為だ。これは警察官としての責務を全うするだけのものではなくなっている。
そして、冷徹に事を運びながらも、その一方では、この素晴らしい発想を貫徹させたという達成感も味わっていただろう。家族の名前が書かれた紙を踏ませて、楽しんでいたのか。まさに加虐性志向があったと見ていい。たぶんそのとき彼は微笑していたのではないか。
こんな行為を思いついたこと自体、浜田被告は悪魔的心の持ち主であり、「アンパンマン考」的にいえば、悪の欲望が暴走し、欲望を抑えるべき自我のアンパンマンが消え、バイキン� �ンが勝利した瞬間だったのだろう。
そして、こんな悪どい発想を思いつく人間にも、「名前」にはそれ自体に魂があるということを知っているということだ。というよりそこに気付いた彼こそ「名前には魂がある」ということを十二分に知っていることになる。
もし私が、大切な人の名前が書かれた紙を踏めと言われたら、どうなるだろうか。
みなさんも想像して見て下さい。
「踏め」と言った人間が悪魔のように見えるはずです。
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